No. 01
連歌の一句に、すべてが詰まっていた
1582年5月28日、愛宕山の連歌会で光秀が詠んだ発句——「ときは今 あめが下しる 五月かな」。
「ときは今」の「とき」は、光秀の出身一族「土岐(とき)」に通じる。「あめが下しる」は表向き「雨が下知(したじ)を打つ」だが、同音の「天が下知(下知=命令)する」「天下を知(治)る」とも読めた。
同席した歌人たちは異変を感じたとも、感じなかったとも伝わる。歴史は、この句を「謀反の宣誓」として読み直した。
Summary · 概要
明智光秀は、織田信長に仕えた重臣のうち最も高い身分に上り詰めた武将だ。出自は美濃土岐氏の末裔と称され、足利義昭の家臣を経て信長に転属。近畿方面軍の司令官として丹波を平定し、近江坂本城・丹波亀山城を拠点に君臨した。
一方で、連歌・茶の湯・古典に通じた当代屈指の文化人でもあった。家臣や領民への思いやりが記録に残り、「民政に優れた理性的な武将」として評価は高い。
その光秀が、1582年6月2日未明、本能寺に一万三千の兵を向けた。理由を語らぬまま——11日後、山崎の合戦で敗れて消えた。「三日天下」と揶揄され、400年のあいだ、彼の沈黙は後世に解釈の余地を残した。
Life Timeline · 生涯の道のり
美濃土岐氏の一族に生まれたとされる。正確な生年・母名は記録が乏しく、複数の説がある。
道三を主君と仰いでいた光秀は、長良川の戦いで道三が息子・義龍に討たれたのち、明智城を追われて流浪の身となった。
一時朝倉義景に仕えたのち、15代将軍・足利義昭の側近として頭角を現す。義昭が信長と連携するとき、その橋渡し役を担った。
義昭を奉じて京都に入った信長の下に加わる。以後、義昭が信長と反目したとき、光秀は信長側に残る道を選んだ。
信長の命で比叡山延暦寺を焼き、数千人を討ったとされる。残虐さに光秀自身も動揺していたという記録も残る。
朝廷から惟任日向守の官位を授かる。同時に、京都の西隣・丹波国を攻め落とすよう命じられる。
五年越しの攻略の末、丹波八上城を降し、波多野氏を滅ぼす。人質として預けていた母親が処刑されたという伝承がこの時期に生まれた(信憑性には議論がある)。
天皇の前で行われた軍事パレードで光秀の軍勢が一際目を引いた。しかしこの前後、信長から家康接待役を解任される・領地替えを命じられるなど、立場が揺らぎ始める。
本能寺襲撃の5日前、愛宕山での連歌会で詠んだ発句。「とき」は光秀の出自「土岐」に通じ、「あめが下しる」は「天下をしる」とも読める——決意の表明と後世解釈された。
未明、丹波亀山から進発した光秀軍は、一万三千の兵で本能寺を包囲。信長は炎の中で自害した。「敵は本能寺にあり」の逸話は、後世の創作だが象徴として残った。
羽柴秀吉の「中国大返し」を受け、山崎(現・京都府大山崎町)で激突。敗走の途上、小栗栖で落ち武者狩りの竹槍に倒れたとされる。わずか11日間の「三日天下」だった。
Personality · 人物像
光秀を描いた史料は、総じて「寡黙で礼節を重んじる教養人」という像を残す。茶の湯や連歌の席での立ち居振る舞いは洗練され、和歌や古典の素養は当代の公家からも認められた。
同時に、家臣や領地の民に対しては温厚で慈悲深く、内政面での評価は高い。丹波平定後の治世では減税と治安回復に尽力し、領民が光秀を慕った逸話が複数残っている。
だが、信長の前では——違う顔を見せたらしい。『信長公記』には、家臣団の前で信長に殴打されたり、領地を取り上げられたりする場面が記される。穏やかな教養人が、内側でどれほど苦しんでいたのか。その重さは、外からは見えない。
Anecdotes · 逸話
No. 01
1582年5月28日、愛宕山の連歌会で光秀が詠んだ発句——「ときは今 あめが下しる 五月かな」。
「ときは今」の「とき」は、光秀の出身一族「土岐(とき)」に通じる。「あめが下しる」は表向き「雨が下知(したじ)を打つ」だが、同音の「天が下知(下知=命令)する」「天下を知(治)る」とも読めた。
同席した歌人たちは異変を感じたとも、感じなかったとも伝わる。歴史は、この句を「謀反の宣誓」として読み直した。
No. 02
1582年5月、信長は織田領を訪れた徳川家康をもてなすため、光秀を接待役に任じた。ところが準備の最中、光秀は突如解任される。理由は諸説あり、魚が腐っていた・準備が信長の意に沿わなかった——。
この出来事が「光秀の怨恨」の典型例として語られるが、実際には本能寺の変の1ヶ月前のこと。光秀の怒りが積もっていた、と読む歴史家もいれば、些末な出来事だったと見る向きもある。
No. 03
光秀が信長を討った直後、備中高松城で毛利と対峙していた秀吉が、わずか11日で200kmを駆け抜けて京に帰還した——「中国大返し」。
光秀は、この速度を予測できなかった。毛利との和睦が成立する前に秀吉が動けるわけがない、と見ていたのだ。結果、光秀は山崎で迎撃され、敗死する。
皮肉にも、この「中国大返しの異常な速さ」が後世、秀吉こそが本能寺の変の黒幕だった、とする説の根拠にもなった。光秀は、最後まで誰かの手のひらの上にいたのかもしれない。
No. 04
山崎の合戦に敗れた光秀は、坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(おぐるす)の竹藪で落ち武者狩りに遭い命を落とした——これが通説。
しかし、その遺体は当初、首級(くび)が確認されないまま時間が経過し、さらに腐敗が進んで顔貌も定かでなかったと伝わる。ここから「光秀は生き延びた」「山中を放浪し、後に天海僧正となった」といった伝説が生まれた。
天海説は歴史学的には否定されているが、400年のあいだ人々が「光秀には生き延びてほしかった」と願い続けた、その感情の痕跡として興味深い。
Relationships · 関わった人々
織田信長
主君革新的な天才にして、家臣を道具として使う過酷な主君。光秀は信長のもとで最高位に上り詰めたが、同時に人前で屈辱を受け、領地を取り上げられもした。光秀の怨恨と敬意、両方の対象。
斎藤利三
筆頭家老光秀の最も信頼する部下。本能寺襲撃の先鋒を務め、山崎合戦の後に捕縛され処刑された。四国の長宗我部家との姻戚関係から、信長の四国征伐政策に強い反感を持っていた。
細川藤孝
30年来の盟友文化人として意気投合した親友で、家族ぐるみの付き合い。光秀の娘・玉(ガラシャ)と藤孝の子・忠興は結ばれた。だが変の直後、藤孝は驚くべき速さで剃髪し、光秀への協力を拒絶した。
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Image Credit · 画像出典
本徳寺所蔵『明智光秀像』·安土桃山時代(16世紀)·Public Domain·Wikimedia Commons